Panic Americana #2 (11/29/1997)
幻の講義録
A Note on “The Metaphor Murders”
巽孝之
A Note on “The Metaphor Murders”
巽孝之
私が水曜 2限の定番で置いている批評理論の講義には、実は幻のノートがある。1989年 4月から 90年 4月にかけてきっかり一年間、月刊誌『翻訳の世界』(バベル・プレス)に連載した「現在批評のカリキュラム」がそれだ。
そのころ、アメリカ批評界ではポール・ド・マンのナチ加担言説が発覚したことで、脱構築批評(ディコンストラクション)から新歴史主義批評(ニュー・ヒストリシズム)への大変動に見舞われていたため、私は当時の主要批評家の未訳理論書を、一冊ずつ熟読吟味することにこの連載のすべてを費やした。全 12回の内、ジョナサン・カラーを皮切りに、キャサリン・スティンプスンまで、一回分は 400字換算で15枚だから、学部のタームペーパー並の分量を毎月律儀に生産していたことになる。その中には、80年代中葉のコーネル大学大学院留学時代にリーディング・リストに含まれていたにもかかわらず、リアルタイムの理解力では到底読みこなせなかったガヤトリ・スピヴァックなども入っていた。私はこの時期に、従前の蓄積を一旦初期化し、ゼロから勉強をやり直すつもりで、自己の再教育に取り組んでいたのだと言えよう。
これは 30代前半のことだ。ゼミ第 1期生諸君は、そろそろ当時の私と同じ年齢に差し掛かる頃だろう。20代後半のアメリカ留学で得たものは大きかった。けれどもその一方で、帰国後の宿題となってしまったものも数多くあった。また、89年から三田の専門課程へ移籍したことで、それなりのプレッシャーも感じており、平成初頭の私は各講義類のノートを毎日のように作っては書き換えていた。今はほとんどそのころの遺産を食い潰しているようなものだ。しかし、集中して繰り返し読むと、どんな難しいテクストでも、水が染み込むように自然に入ってくる「瞬間」が訪れる。この瞬間が訪れないのなら、まだまだ読み込みが足りないのだと考えて間違いない。これは事実である。量が質に転化する、量子論的跳躍は私の信条とするところだが、一定の読破量を超えるときというのは、一定の時が熟する時期と絶妙に重なってくるもので、まさに時は魔物、というより他にない。
では、問題の「現在批評のカリキュラム」は以後どうなったか。当初の目論見では、連載終了後大幅に加筆修正した上で、批評理論の教科書として、勁草書房から刊行する予定であった。しかし、前半を理論編、後半を実践編にして一冊にまとめたらどうだろう、と欲張っている内に、どんどんニュー・ヒストリシズム系統の実践的論文を書き継いでいくことになり、結局勁草書房版として構想していた『メタファーはなぜ殺される』(という仮題もしっかり決まっていた)はすっかり宙に浮き、永遠の近刊と化してしまった次第である。従って、今日の『ニュー・アメリカニズム―米文学思想史の物語学』(青土社、1995年/1998年 2月再版)を手にする方は、本来一冊の書物として予定されていたテクストの前半部(理論編)をすべて割愛した後半部(実践編)だけを読まねばならないことになってしまい、著者としては内心、その点について長い間忸怩たる思いにかられていたものだった。
ところが、10年近い歳月というのは、テクノロジーを進化させるとともに、幻の講義録さえも可視化してしまう。近般、前掲『翻訳の世界』元編集長の丸山哲郎氏と、元担当編集者の木内かおり氏が、新出版社インスクリプトのホームページ "Inscript Web" をスタートさせて、インターネット上で多様な批評家の単行本未収録原稿を立ち上げているのだが、その電脳空間上に私の「現在批評のカリキュラム」全文と、同系統関連論文が "The Metaphor Murders"の名のもとに、毎月一点ずつ復元される運びとなった。(やがて近況ぐらいは更新していくかもしれない。また、巽ゼミのホームページも近々スタートする予定なのでどうぞお楽しみに。)*編集部註:1年半を経てようやく開設されたのが、このページです。
かつて難解であった理論書が、時とともに「読める」ようになるという経験を持つ私としては、かつての幻の書物が、技術論的進化とともに「読める」ようになる時代の到来に、いささか複雑な心境だ。現在では後者の意味合いにおいてのみ「読める」ということを礼讃する向きがあるものの、前者の意味において「読める」ことができなければ一切のテクストは成り立たない、というのは言うまでもないことである。
ハイテクがたちまち閲読可能にしたテクストも、やがて時を経れば理解可能になるのだろうか。しかし、どのような時代にも、理論抜きに「読み得る」テクストもあれば、時が熟さなければ理論的には把握できても、決して「読み得ない」テクストも存在する。さらに、以前こそ読めたと思っていたテクストを再読してみると、時がたってしまったがために、まったく別の様相を呈することも珍しくない。シェイクスピア然り、メルヴィル然り、ピンチョン然り。量は質に転化するが、同時に、量が質を変化させることもあり得るのだ。テクストの固有の意味を決定したいという向きには、非常に不安な事態であろう。だが、私たちが今現在めまぐるしいパラダイム・シフトの渦の中、カオスの縁に立ち尽くしていることも、一つの揺るぎない事実である。まさしくそんな逆説的瞬間に、文学作品は最も蠱惑的な輝きを生み出すのではないだろうか。
(11/26/1997)