読売新聞( 1998年 1月 11日)
末延芳晴著
『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)
巽孝之
四年前、〈マリ・クレール〉誌に連載されていた本書の原型は、毎月待ち遠しい読みものだった。
世紀末都市論で賑わう昨今ながら、まず作家・永井荷風の文学的原型を、『あめりか物語』( 1908年)に綴られた世紀転換期アメリカの文化史内部に再探究するという着想が、オリジナリティにあふれていた。さらに、その傍証として当時の華麗な絵葉書が惜しげもなく満載されるという演出が、サービス精神満点だった。読んで面白く観ても楽しいというのは、雑誌連載の鑑ではあるまいか。
その論考を今般、大幅な加筆改稿を経てまとめたのが、待ちに待った本書である。単行本の制約上、絵葉書の分量がやや減らされてはいるものの、しかし西海岸から東海岸へ移動する荷風を追う著者の筆致は、それ自体がロード・ムービー的ともいえるほど、視覚的想像力を刺激してやまない。
本書の基本的主張は至って明晰である。荷風は、日本および米国内日本人社会においては、日本郵船横浜支店長の御曹子および新進作家という記号的優越性を備えていたが、他方、いわゆる白人男性中心のアメリカ社会一般においては―特にメトロポリタン歌劇場においては―それこそたんなる群衆の人、一介の都市遊歩者にすぎないという自分の無記号性を思い知り、まさにそれゆえに彼は自然や芸術、そして女性との関係を深めていった。にもかかわらず、荷風が恋人イデスらと別れたのは、愛と言語の二者択一を迫られた時、彼が迷うことなく後者、すなわち「日本語で書くこと」を目的として選び取ったからだ。そしてそこにこそ、夏目漱石や森鴎外と異なる二十世紀作家・荷風の新しさがあるのだ、と著者は結ぶ。
本書の荷風はさらに陶淵明からジョン・レノン、永山則夫とも通底する存在として時間と空間を超える。荷風の自由な文学が末延氏自身の自由な批評とみごとに融合した、これは希有な達成である。