2000/02/17

Kotani Mari Essays:ダブルクリック(全13回)


第 1回  アムトラック
10/2/2001

8月末日。ボストンからフィラデルフィアに向かうのに、鉄道の旅を楽しんだ。

アメリカ国内の移動では、ふつう飛行機か自動車を利用する。国土が広く、居住区が点在しているので、「速い」か「小回りが利く」かが決め手になる。

では、なんで今回に限り鉄道(アムトラック)にしたくなったのかといえば、実は全世界的大ヒットとなった児童文学ファンタジー『ハリー・ポッター』のせいなんですね。

あの物語に出てくる主人公の少年ハリーは、魔法を教えてくれる寄宿学校へ行くために、キングス・クロス駅の「九と四分の三番線」から汽車に乗らなければならなかった。
 
そんなの、あるわけないじゃない! と困ったハリーがドキドキしながら探していると、はたして、九番線と十番線の間に魔法のプラットフォームが忽然と現れるのだ!

この部分、わたしはとても好きである。そこでハリーの気分をちょいと味わってみよう、ついでに本も読めるしなどと考えたのだった。ところが、乗り込んでみると、魔法教科書ならぬ、携帯用コンピュータを開く乗客がけっこういる。大陸横断鉄道だけに、見れば窓の脇にちゃんとコンセントが用意されている。長旅でもバッテリーの心配なく、使えるというわけだ。ビジネスマンばかりじゃない、女子学生が日本のアニメ『BLOOD』をDVDで見ているという光景にすら出くわした。長旅と言えば、"茶を飲みながら文庫本"なんていう感覚は、もう古いのかなあ。

それからほぼ十日後のことである。同時多発テロのため、同列車がカナダとアメリカ南部を結ぶ重要輸送機関となったという話を、風のたよりで聞いたのは。

第 2回 エイリアン同士
10/9/2001

9月23日に、日本ジェンダー学会主催「国際女性文化会議、京都 2001」というシンポジウムが国立京都国際会館で開催された。今から一千年前の紫式部や清少納言の話題からこの先一千年後の未来までを見据えて、女性文化を語ろうというのだ。「千年単位」とは希有壮大だが、女性問題って多少気が長くなくてはやっていけない。

かつて「男は外、女は家」という価値観がポピュラーだったころ、「女性の社会参加をうながす」スローガンがうち立てられた。その後「だれにでも門戸は開放されている」というコンセプトが一般化し、「男性の家庭参加」もうながされ、いざ相手の世界に足を踏み入れてみると、驚愕の事実が待っていた。

「相手がエイリアンだった」という発見だ。お互いに「なんと自分のナワバリにエイリアンが侵入していたのか」とか、「なるほどこれがエイリアンの世界なのか」などと気がついたわけである。

京都の会議は、そうした異文化接触の生み出す問題を、政治・経済・文化といったさまざまな分野にわたって、豊富な具体例をあげて指摘していた。それらを見聞していると、おなじ空間に住みながら、女と男というぜんぜん違う文化圏が形成されているんだなぁと、つくづく考えさせられた。

これをどちらかひとつの価値観だけで乗りきろうなんて、確かにそりゃ無理な話である。

わたしも文学評論という分野にたずさわっているが、女性表現者の活動を「女エイリアンってこんなもの」という男エイリアンの思いこみだけで適当に評されてはたまらない。でも、それを相手に届かせるのはけっこう難しい。何に違和感を感じているのか、まず相手にわかることばで翻訳しなければ始まらないからだ。文化対話の技術向上、必要ですね。

第 3回 親とその親
 10/6/2001

中年にさしかかったのか、「親の健康状態」の話題が、同世代の友人たちからポツポツもれるようになってきた。伊豆に隠遁したわたしの父も、こちらが忙しさにかまけて会話を怠っていると、たちまち幻想世界に入りっぱなしになってしまう。介護の問題にもついつい敏感になりがちだ。

ところが、夫の実家では、わたしたちの世代なんてまだまだヒヨコ以前。なにしろ親の親の世代、つまり「おばあさまたち」がサバイバルしているからなのだ。夫の祖母は 97歳。 101歳のお姉さまと 92歳の妹君も存命中だ。

年をとってもきゃぴきゃぴ華やかな三姉妹のケアをしているのが 70歳前後の人々。

地方自治体の介護サービスを利用したり、兄弟姉妹で協力し合ったり、お世話を媒介にけっこう緊密な連絡をとりあっている。というより、自分たちも老年期なので、それが特別のことではなく、お互い自立しつつも助け合うというつきあい方に慣れているのだろう。

しかし、今年の猛暑で、ついに 97歳のお祖母さんがぽっくり亡くなった。そこで、納骨に際して、「生前なにもできなかったから」と、新車にお骨と舅姑をのせて夫と一緒に墓地へでかけたら、納骨後、車の CDプレーヤーが動かない。うんともすんとも言わない。修理に出すと、異常なしという。接触が悪かったのかねなどと話していると、拙宅にきていた家政婦さん( 68歳)が、ためらいがちに秀逸な解釈を披露した。

「新車には作り主の魂がまだいるから、普通お骨はのせないんですよ」。
 
合理的思考になれきっているのでそんなこと考えたこともなかったなぁ。

言われてみれば、お祖母さん、音楽マニアの孫をちょっと振り向かせたくなったのかもしれませんね。
 
第 4回 愛と哀しみのおにぎり
10/22/2001

新米の季節になった。毎年この季節には新米を炊いて、大好きなおにぎりをにぎる。

などというとかっこいいが、実は、すっごく情けない話ながら、わたしは素手でおにぎりがにぎれない。かつて学生時分に腹ごしらえだと言って、夜中におにぎりを握ろうとした時のこと。あまりの熱さに飛び上がりながら、白いご飯粒をはねちらかして、ものすごくいびつな物体 Xを作ってしまった。あの忌まわしい思い出は今にいたるも克服されていない。こんなにおにぎりが大好物なのに。以来、ン十年。おにぎり製造は、決死の覚悟でいどんだものだった。

しかし、現在のこの物質文明、消費社会の極致である日本では「おにぎりをにぎれない」ワタシのような軟弱者のために、おにぎり製造用のプラスティックの型が販売されている。さらにコンビニに行けば、陣中だろうが休日だろうが美味しいおにぎりにありつける。千差万別の具がひしめくおにぎり軍団は、もう壮観としかいいようのない光景で、おにぎりに並々ならぬ執着心を抱く人々は幻惑されてしまう。ただし、消費優先で便利すぎる世の中に対する違和感や、堕落を恐れる気持ちも、まだ完全に消滅したわけではないから、店先で悶々としてしまうんだよね。

ああ、おにぎりよ。

先日めずらしく、がっちりにぎり込んだ、素朴にして力強い、いわゆる「母さんおにぎり」を食べた。アメリカは東海岸の話である。「コンビニのお茶やおにぎりが恋しくてたまらない」と言いながら友人が作ってくれたおにぎり。すばらしい。今や日本の伝統文化が生きているのは異国の地か。と思ったら、彼女、熱いからといって、ビニール袋にご飯を入れて握っていた。おにぎりの神様。わたしたちって、堕落しているんでしょうか。 

第 5回 ゴミの行く末
10/31/2001

なんだかいつも気になる問題といえば、ゴミである。ゴミは、なにをするにもついてまわる。飲んだらゴミ、食べたらゴミ、仕事中にもゴミ、お買い物したらゴミ、洗濯したらゴミ、お掃除でゴミ、と寝ても覚めても、わたしたちの生活ってゴミに縛られて、いや、ゴミに支えられているんですね。

ゴミ処理はきらいではない。分別だってけっこう好きなのである。けれど、時々どこに捨てたらよいのかわからない、実に境界侵犯的なゴミがでることがあって、動揺してしまう。金属やプラスティックや紙などが一体化したサイボーグ的なゴミ。こういうのに遭遇するとゴミの行く末が非常に気になる。

ゴミのことに気をとられたままで、SF小説を読んでいると、ゴミの考察から文明全体を描き出していくというお話がけっこうあるなと気がついた。たとえば、藤田雅矢の『糞袋』(新潮社)。江戸の町の排泄物が集められて肥料として使われるその循環システムについて考察した傑作SFだ。排泄物を取り合う業者の闘いは、けっこうえぐいがおもしろい。ニコラ・グリフィス『スロー・リバー』(ハヤカワ文庫 SF)は、未来の下水処理施設が舞台。汚水を微生物で処理してキレイな水に変えてしまうテクノロジーがまことにリアルに描かれる。

どちらも、都市全体でゴミや排泄物や汚水はまとめて処理される。ゴミってやっぱり大量処理しなければならないのかな。と思っていたら、今は、各家庭に個別に排水処理機能をつける技術があるという。家庭排水や生ゴミをキレイにしてから出すのだそうだ。洗い物をしながら、配水管にフィルターでもつけたい、などと妄想にふけっていたわたしには福音だ。まずゴミのことを考えながらものを作る時代、来るんでしょうか。 

第6回 平均寿命の七歳差とは
11/6/2001

今年の第 14回東京国際女性映画祭に、女性映画監督・浜野佐知さんの『百合祭』が出品された。原作は九九年に北海道新聞文学賞を受賞した桃谷方子さんの同名小説。

北海道のひなびたちょっと古風なアパートが舞台である。「鞠子アパート」と名付けられたその場所は、老齢の女性ばかりが住んでいる。彼女たちは、さまざまな理由で家族と離れて一人暮らしをしているわけだが、「わけあり」のわりには、その生活ぶりはけっこう優雅な独身生活。みんな適当に仲も良く、平和な日を過ごしている。

そんな老女ばかりが集まる鞠子アパートに、とてもナイスなおじいちゃんが一人引っ越してくるところから、事態は急変する。なぜなら、ミッキー・カーチスが演じているこのおじいちゃんときたら、お洒落でダンディーでいかしていて、女性に親切、手も早い。つまり光源氏のようなヤツだったからだ! かくして、鞠子アパートのおばあちゃんたちは、いっせいに色めき立つ!  

日本の男女の平均寿命は、女性が 84.62歳、男性が 77.64歳。七歳の開きがある。理論的には、男の数が少ないわけだから、生存競争に勝ち抜けば(?)、オトコは七年間モテモテになるわけか。この男女平均寿命の非対称性に目をつけたところが、なんともスルドイ。ただし、物語は途中から思わぬ方向へ展開し、むしろ老人女性たちの繋がりを丹念に描き込んでおり、はなはだ心惹かれるものがあった。女ばっかりが集まると年や経歴に関係なく、みんな女子高生みたいになっちゃうんだなぁと思わず微笑を禁じ得ない場面も多い。なんとなく女のユートピアって感じがしなくもない。 

穏やかで牧歌的だけど、スリリングで考えさせもする、そんな映画だ。なによりもおっとりとしたユーモアがすばらしい。

第 7回 プラネタリウムの星空
11/13/2001

SFファンには、天文ファンがけっこう多い。わたしも幼いころ、当時渋谷にあった五島プラネタリウムに連れて行ってもらったことで、星と本に夢中になった。しかし、同所は四十四年の活動の後、今年三月で閉館した。その後ウェブページで全世界に生中継された最後の投影を、折りにふれては、再生して見ている。

昨年、ニューヨークの自然史博物館に遠征し、最新の知見を生かした米国プラネタリウムの豪華な天文ショーに熱中したが、コンピュータがない時代に、モーターと歯車と解説員の巧みな話術で楽しませる五島プラネタリウムは、今見ると非常に味わい深い。

ところで、そんな五島プラネタリウムの終演を惜しむ熱烈なファンのために朗報がひとつ。作家の瀬名秀明さんの新刊『虹の天象儀』(祥伝社)が、五島プラネタリウムを扱っている。

閉館の日、最終投影を行った解説員が、タイム・スリップで、戦時中の有楽町へ行き、空襲で消失したという東日天文館を訪れるという展開。星を愛する人々と、自然現象を再現するカール・ツァイス型投影機の不思議を描いている。星空だけではなく、歴史的過去までをも再現する機械たちが魅力的だ。

自然という対象へのロマンチックな思いが、自然を再現する媒体への興味に繋がっているのは、なんとも興味深い。なんだか星の投影機の姿が、ロボットの原型であるオートマトン(自動人形)のように見えてくる。

それにしても、プラネタリウムで見たあの星空は、肉眼でなかなか見られなかった。住んでいた地域のせいもあるが、雨あがりで雲ひとつなく、すみきった無風状態という最高の条件は、意外に難しい。まさに一期一会の出会いである。その渇きをいやすため、SFファンになったのかも。 

第 8回 芝居の対決構造
11/20/2001

先日、栗田芳宏演出の『カッコーの巣の上を』を観た。

ケン・キージーの原作は、60年代初頭のアメリカの精神病院の非人間的なシステムを描き出し、1975年に映画化されアカデミー賞を総なめにしている名作中の名作だ。しかし、実はこの話、わたしはけっこう苦手であった。

最初の映画版があまりにイタイ話で、その強烈な記憶はとうてい忘れることができなかったからだ。最近では怪優という呼び名がぴったりのジャック・ニコルソン演する主人公のマクマーフィは、「出るクギはうたれる」そのものといった運命を辿り、見ちゃいられないほど切実だったうえ、ラチェット婦長が病棟に君臨し、薬物と手術で患者たちを絶対服従させる独裁者として人物造型されている点にも、戦慄が走った。

今思い返すと、子供心に、わたしは、社会という外の世界で傷ついたり疲れたりした心と体を癒すと言う意味で、精神病院に家庭を重ね合わせていたのかもしれない。そしたら、やさしいはずの家庭にはものすごくおっかない母親(つまり婦長)がいて、もっとキビシイしつけとお仕置きの世界が待っているらしいと、見ていたのだろう。

ところが、今回のお芝居は、ずいぶん印象が異なる。一番の変貌はそのラチェット婦長だったのだ。かつてなら、暴君的な母親像の究極的な姿として描かれたラチェット婦長を、元宝塚俳優の安寿ミラが演じている。美人で狡猾で戦闘的な専制君主ラチェットと、今井雅之演ずる、わがままでお気楽でとんでもない性格のダメ男マクマーフィとの対決。こうなると、男と女が社会の中で持つ、ある種の矛盾のぶつかり合い、つまり男と女の狂気が衝突するといったニュアンスがずっと強くなってくる。母と子の対決から、男と女の対決へ。この変化は、おもしろい。 

第 9回 温泉と城
11/27/2001

紅葉の季節というと、旅に出たくなる。場所はやっぱり温泉だ。連れは、長年つきあってきたファンタジイ・ファンサークルの同人たち。

でもね。温泉で宴会というだけではおさまらぬのがファンタジイ・ファン。「やっぱり、お城見たいでしょう」などと妙なことをぬかして、目的地は温泉と城が名物の群馬県は沼田近辺とあいなった。それも、日本武将の天守閣ではなくスコットランド産のロックハート城である。このお城、俳優の津川雅彦さんらが、30個のコンテナに分割してシベリア鉄道を使って運び、すったもんだのすえ 1993年に移築を完了したという。

聞けば、付近一帯は、ヨーロッパ風チャペルやショッピングモールや遊園地、ダイアナ元妃御料車だったロールス・ロイスや旧型プジョーといったヨーロッパの風物を集めているらしい。

これって、80年代に流行ったテーマパークの名残りかな、バブル崩壊後のフトコロ感覚ではさびれているんじゃないかなどと、憶測をたくましゅうして、いざ当地へいけば、これがまたどうしてどうして、けっこうなにぎわいなのであった。

お城は結婚式場と合体し、恋人たちのメッカと化している。さらにレストランでは、黒が基調のメイド服風ロリコン(ロリータ・コンプレックス)・ファッションで身をかためた五人の女の子たちがお食事会を開いているといった具合で、あちゃらのモノと日本の片田舎の雰囲気とが完全融合した、これはシミョレーション・カルチュアそのものだ。日本にいながらにして、ファンタジー(?)を体験する摩訶不思議な場所。なんでも取り込んで想像力を刺激する懐の深さが、居心地良いってことなのかな。

第 10回 『白鯨』の真相
12/4/2001

今年はアメリカ作家メルヴィルの『白鯨』が出版されて 150周年目、なのだそうだ。

てなこといきなり言われても、アレどんな話だっけ?むかし購入したまではよかったが、ブ厚さにおののいて、以来ツン読。ところが先日、劇団・燐光群が原作にばっちり忠実に劇化してくれた。ラッキー!

単に白いクジラを追っかける、というストーリーなんですけど。何しろ登場人物がみいんな個性的、というかヘン。アブラの原料だったクジラは石油のない時代にはきわめて豊かな資源だったそうだから、一攫千金を夢見る怪しい船員がごろごろしている。だいたい、エイハブ船長からしてあぶない。ふだんから船室からでてこないわ(引きこもり?)、出てきたと思ったらいきなり狂乱状態になる(捕鯨船内暴力?)。鯨を撃つために祈りをささげ…というところまではよいのだが…あやしい儀式を自ら開発(オカルト教団?)。部下を叱咤激励、鼓舞しまくり(心理的虐待?)。雨にも風にも台風にもめげず、そのへんの鯨なんて目じゃない、とにかく白鯨を追いかけろッ?と猪突猛進。白鯨への復讐というより、これはもう、愛です。かくして、白鯨ストーカーと化した捕鯨船ピークォッド号は、果てしのない死闘へと向かっていく。

だいじょうぶか、エイハブ! 

それじゃ会社は、いや船は沈没するぞ!破産は必須だ!と、どっか身につまされてコワイ海のホラー話。なんだ。ぜんぜん古びてないじゃんか。

もっとも、原作は基本的に男性ばかりなんだけど、燐光群版では少数民族出身の三人のモリ撃ちたちを女性が演じてモリダンス(?)を踊ったり、縄文時代からのクジラと人間の生活史やクジラの使い方をおもしろおかしく紹介したりと、しゃれた演出もいっぱい。いやあ、目がさめるようでした。

第 11回 ことばはナマモノ
12/11/2001

心ひそかにかっこいい文章をめざしたいと思うと、つい新造語や流行語が気になってしまう。とはいえ、今年の流行語大賞は政治向きのことばが多くて、ちょっとつまらない。痛みのある改革とホントに痛かったテロなど、国内外とも政治向きの話題が独占したからか。遊び系は少なく、思わず噴き出すような独創性に満ちた庶民語はさびしいかぎり。すこし余裕がなくなってきたのかな。

もっともここ数年、躍動的な庶民語と遊び心は、インターネット方面に吸収し尽くされているようだ。たとえばカルト的人気の「2 ちゃんねる」は、だれでも書き込み自由の掲示板で、罵詈雑言 OKの性質ゆえに悪名がとどろいているが、創造力のほうも爆発的である。また、いつの時代でも新感覚にはじけた言葉を大量生産する学生諸氏も現在携帯メールのやりとりに夢中とのことだから、いま新言語に会いたかったらインターネット世界へ行け!ということかもしれない。

日本語研究者で、トリさんならぬ、ことばのウォッチャーとしての 15年にわたる観察記録『ワードウオッチング』を記した小矢野哲夫氏も、インターネットのホームページで、日夜日本語全体の変化に気を配っている。彼は、流行語だけではなく、ことわざの意味の推移をも鋭くキャッチ。観察記録を見るとホントにことばはナマモノだと思う。

考えてみれば、知らないうちに消えていってしまったことばも多い。いまだにノートを「帳面」といい、小麦粉を「メリケン粉」なとど口走ってしまうわたしには、日本語の変化のスピードそのものがとっても気になる。だって、二百年前の英語がそんなに変わっていないのに、そのころの日本語、読めないんだもん。どうしてなのかな。 

第 12回 手作業の熱気
12/18/2001

ハイテクノロジーの成果で、昨今の音楽における創造力はめざましい。

ケルト大好きなんです、という yasukoさんは、摩訶不思議なパートタイム・ミュージシャン。

インターネットのウェブページで、「薄明の島」と名付けられた異世界が舞台のハイパーテクスト小説を発表し、その世界のための歌を自作自演している。

11月末には、調布の布田で久々のライブを行った。といっても、会場は、十五人も入れば満席になってしまう、小さな小さなカレー屋さん。そこにキーボードを設置しアコーディオン奏者とふたりだけのコンサートである。

自身で製作する物語世界をもとに、小説朗読と歌をからめた全九曲構成で、架空の世界に描かれた「大地の祭」が繰り広げられる。カレー屋さんを異世界のお店に見立てての熱演は聞き応えがあり、ムード満点だった。

こうしたインディーズ系女性ミュージシャンの活躍はけっこう活発で、昼間の教員生活の合間に、青山や銀座などさまざまなクラブで歌っている亜樹子さんのほうは、R&B系のジャズ・シンガー。彼女も作詞・作曲をこなす。

学生時代の友人 Masashiと、コンピュータの打ち込みを中心にしたデュオ・Waxtractを結成し、この夏、初めての CDを出した。「プレゼントをたくさんくれて優しいことばもかけてくれるけど、実はわたしをちゃんと見ていないでしょ」という、せつない歌詞が印象的だ。

すべてがハイテク機器で制御され、インターネットで発信されていく彼女たちの世界は、おもしろいことに、どこか手作業の熱気を伝えてくれる。

洗練されたセンスで自己表現していく音楽の豊かさには、驚かされるばかり。 

第 13回 作家にとって夫婦って
12/25/2001

昨今、主夫作家が増えてきた。職場通いの妻のため家事育児をこなしつつ、ウェブページで料理のレシピまで披露してるのを見ると、けっこうエンジョイしているじゃない。それはそれでさわやかだ。逆の場合はどうなんだろう。

去る 12月 4日、日本ペンクラブ女性作家委員会主催のシンポジウム「女性が書くとき」が開かれた。今年のサブテーマは「共生、ハードル、幻想」、パネルも「パートナー作家のひみつ」。女性作家にとっての夫婦生活とは?という話題が見えてくる。

基調講演は作家の林真理子さん。妻の仕事にまったく興味も関心もない夫を持つというのは、書くぶんには気楽だが、「妻たるもの家事が主、それ以外の仕事は従」が当然という家庭環境では、時間拘束がけっこうきつそうだ。林さんほどの才能でさえそうなのかと思ったけれど、そこからは自ら保守的なライフスタイルを取りつつ、厳しさをバネに飛翔しようとする作家・林真理子のしたたかさとしなやかさが窺えて、目を見張る。

筆者も出席したパネルでは、シャーロック・ホームズ研究家の小林司・東山あかね両氏による作家夫婦円満の秘訣が語られた。ホームズ役は妻のほうで、徹底的にホメあうのが基本という。またファンタジイ作家夫婦の佐藤亜紀・佐藤哲也両氏からは、互いの作品批評でけっこう修羅場が展開されるという一幕も明かされる。

同業夫婦は基本的に戦友みたい。ただし夫婦内部の闘争より、夫婦作家をとりまく一般社会が押しつける性的役割の前提に最大の「ハードル」がある。

そのせいか、シンポジウムでは、女を骨抜きにするのが当然という男社会の構造を熟知したうえでそれを回避するにはいかにすべきか、その方策まで伝授されたものである。

うーむ、これが夫婦作家サバイバルの知恵なのか。

(毎日新聞 2001年 10月 2日- 12月 25日、毎週火曜日夕刊)