2000/02/21

Book Reviews『プログレッシヴ・ロックの哲学』


巽孝之『プログレッシヴ・ロックの哲学 (Serie′aube′)』
平凡社、2002年


プログレッシヴ・ロックは70年代半ばに興隆をきわめた音楽だが、他のさまざまな「ジャンル」と同様、オタク的だったり趣味的だったりする批評はあれど、真正面から取り組んで論じたものはほとんどない。筆者はそこに専門分野であるSFや現代思想の視点を取り入れ、西洋史の流れを押さえながら、キング・クリムゾンやイエス、ELPについて考察を進める。そのキータームが「キメラ」。いやあ、やってくれました。「プログレSF論序説」やひじょうに偏った「名盤20」なんてのがあるのも嬉しい。
小沼純一<recoreco #4 2003.1.1>

ヨーロッパ発のロマン主義は、ロックというアメリカ生まれの科学で奇形化され、キメラの音楽という新たな科学へと姿を変えた。ロマン主義とモダニズムの対立的共存という。、西欧近代の本質的な問題は、この新たな科学によって危機的=批評的(クリティカル)に表現されている。プログレッシヴ・ロックとは、第一次大戦後アメリカに主導権を渡したイギリスが、西欧近代の帰結ともいうべき汎アメリカ主義へ対抗するために開発した、最後の危機的=批評的科学なのである。この本は新たな時代の哲学書として画時代的な書であり、新たな科学の入門書として必携と思う。
酒井信<SPA! 2003.1.14>

米文学者ながらSF研究家として有名な氏らしく、神話性と幻想性を重視した解釈に、オールド・ファンは舌を巻くだろう。(中略)文体は重いが、プログレに幻想の楽園を思い描く読者は一目置くべきか。巻末のセレクションには本書を読み解く情報となる、筆者の趣味がうかがえる。
無記名<CDジャーナル 2003.2.1>

「文学博士の異常な愛情」あふれる自分史的な知のシンフォニー・・・なるほどプログレを「キメラの音楽」と呼び、その「怪物的ツギハギ」に多文化混淆の哲学を見る本書は、ある種の学者には「通俗的」であり、多くの音楽ファンには「エリート的」であると映るかもしれない。が、著者は、嫌われ者のキメラを自ら演じ切る――プログレッシヴ・ロッカーたちが、「猥雑な」ロックと「高尚」なクラシックを攪拌するように。進化するアカデミック・サイボーグ・巽孝之の独走/独創は、既にしてもうどうにもとまらない。
舌津智之<週間読書人 2003.2.7>

われらの世代にとって最も親しく、大切な種類の音楽について、音楽ジャーナリズムの文脈を離れてのびのびと、好きなように語る。(「セリ・オーブ」シリーズは)著者たちの嬉しそうな表情が、読む者の心も弾ませてくれるような、これまでありそうでなかった企画なのだ。巽氏の場合は、「アヴァン・ポップ」や「スリップストリーム」の凄腕理論家らしい堂々たる構えでもって、エマーソン・レーク&パーマーやイエスの大昔のCDにいまだ興奮してしまう元ロック少年少女たちに、きみたちは間違っていなかったんだとアカデミックな後ろ盾を与えてくれる有り難い本だった。
野崎歓<週間読書人 2003.2.21>

いまどきの音楽評論ではお目にかかれぬこだわりの視点が面白い。(中略)全体にもどかしさを覚えずにはいられないこの本は、きっと来るべき書物への序章となるのではないだろうか。かつて氏がジャンル外からSFへと飛び込んで来た笠井潔に期待したような何かを、私は氏に期待してみたい。
                                        坂本理<ミュージック・マガジン#35.4 2003.3>

・・・アルバム・ピックアップでまず注目したいのが、パトリック・モラーツがイエス加入以前に在籍していたレフュジーのアルバム『レフュジー』(74年)を挙げていることだろう。筆者は別頁でもこのアルバムをプログレッシヴ・ロック最高の一枚としているが、どうしてなのかという理由を知りたい方は今すぐ書店に行くことをお薦めする。一見すると難解そうなイメージがするが、筆者の音楽に対する愛情に満ち溢れた一冊となっている。
無記名<ストレンジ・デイズ #44 2003.5.1>

評論という胡散臭くてエキサイティングなジャンルを楽しみ尽くすための4冊を。(中略)評論にはアート、文学さまざまあるが、多ジャンルとの関わりはもはや避けられないので、巽孝之による『プログレッシヴ・ロックの哲学』。ピンク・フロイドと半村良とジェームズ・タレル、なんて三題噺にも対応できるようになる。本書の論考の起点となった藤原義久の著作も必読です。
橋本麻里 <『Brutus』#520 2003.3.15>

一部で化石と見なされていたこのジャンルの『復活の敬意を語り、未だに熱狂的支持者を持つこの音楽の本質を明らかにするこの本が、ファンでない者にさえ伝えてくるもの。それは、文学批評理論の洞察が、一つの音楽現象を解き明かすときのダイナミックな興奮と、本当に好きなものを語る著者の喜びを言語を通して共有する楽しさであった。「哲学」とは、学問をすることのメタ・レベルで生じる意義のことなのかもしれない。本書の魅力は音楽という非言語アートを文学批評の言語に翻訳したところにある。文学・文化研究のレトリックが、音楽史上の怪物(キメラ)とされるプログレを、何重ものメタファーに絡めて解き明かしていくのである。
下河辺美知子<『図書新聞』2003.7.5> 
     この書評のフル・ヴァージョンはCPABRに掲載されています。 

 著者がプログレッシヴ・ロックを「キメラの音楽」と定義することに呼応するように、第I部における著者独自の興味深い視点も、ある意味目まぐるしく飛翔し、脈絡がなく繋がっていくように見える。しかし、その底流に一貫して連なるものは紛れもない「愛」である。プログレッシヴ・ロックがプログレスすることをやめ、クラシカルな様式美に留まることに変病を遂げた現代においても、なお一部の者を魅了して止まないのは、70年代初頭の(より若い世代では遭遇時の)プリンティングが今なお鮮烈に輝いている証左であることを再認識させられた。(中略)第II部におけるプログレとSF文学の接点あるいはシンクロナイズに関する考察は、(評者が全く不知の世界でもあり)ただただ感心し、興味深く読むことができた。筆者の専門知識とその幅広さの面目躍如。
――Yes Family Fan Club #53 (2003 Summer)