1992/02/17

短編 "1955" とアリス・ウォーカーにおける白人観:結論

結論

 ウォーカーの書く物語は一見して"whole"の概念を持つ理想の人間像を描き、多くの感動を与えているかのような印象を与えているが、かなり白人的な部分を持つという矛盾をも、もっていることがお分かり頂けただろうか。この論文で示した、ウォーカーの"creole"な要素はThe Color Purple (1982)の小説のなかで"epistoraly narrative"、書簡体の「語り」にすることで自分の「語り」の声を分散し、巫女という媒介の役割りを強調するなどの点からみると最も顕著だろう。この点は、ウォーカーの敬うZora Neale Hurstonの「二重の声」と一致することで歴然としてくる。そして、今福 龍太氏の力説する、"creole"の概念である混成主体、MULTI-ETHNICな要素がウォーカーの矛盾は構造主義以降の現代の人々にとって自然であることを証明してくれる。また、ウォーカーの短編 "Nineteen Fifty-Five"の粗筋から黒人の歌(ウィリー・メイ・"ビッグ・ママ"・ソーントンが実際にされた)を搾取したことから一見して、「白人対黒人」の二項対立かと思わせるが、登場人物、TraynorとGracie Mae Stillの二人の「親しい」関係はそうとはいえない暗示を示していた。そして、それはまさにウォーカーの一般に考えられている黒人の歴史を尊ぶ姿勢が無意味なもので彼女の白人性と一致する興味深い構造をもっているのだ。つまり、この短編"Nineteen Fifty-Five"にはウォーカーの従来言われてきた姿とは違う一面を暗示する要素があるのだ。ここで、最後にもう一つだけ重要な点を指摘しておきたい。それは、ウォーカーが非黒人的行為をしたことと同様、この短編で黒人女性Gracie Mae Stillもまた、非黒人的行為をしていることだ。著者であるウォーカーが気付いていたのかは分からないが、ウィリー・メイ・"ビッグ・ママ"・ソーントンの歌っていた歌は白人(Presley)が歌った<ハウンド・ドッグ>とはまったくテンポの違うスローなブルースふうであり、マーカスに言わせると「エルヴィスはそのレコードを聴き、テンポから歌詞に至るまで曲をまったく変えてしまい、ソーントン版をずたずたにしてしまった。白人がその曲を作り、白人がヒットさせているのである。」(Marcus,訳p.292)つまり、短編中でGracie Mae StillがTraynorと一緒に"the Johnny Carson show"に登場し、"He goes into the same song, our song, I think, looking out at his flaky audience."("Nineteen Fifty-Five",p.18)のように歌ったとウォーカーは書いているが、黒人であるGracie Mae Stillは、Traynor(Presley)のヒットした曲を歌うので白人のロックを歌ったといえるのだ。この点はウォーカーの白人の要素に一致するといえないか。この短編"Nineteen Fifty-Five"最大のアイロニーは、実はウォーカーの白人性をしめすキーワードともいえる"creole"と同様、白人の歌(非黒人的な物語)を歌うウォーカー自身をも描いていることにほかならない。


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