2019/02/08

【お蔵出し】「ふしあなクラブ」(『三色旗』2013年12月1日)

ふしあなクラブ

巽 孝之

十九世紀中葉のアメリカ文学最大の女性詩人エミリ・ディキンソンに「蠅が唸るのが聞こえた—死ぬ間際のことだった」“I heard a Fly buzz - when I died” で始まるゴシック・ロマンス風の名詩がある。死ぬ間際、おそらくはベッドのまわりに家族が集まり、詩人が遺言状署名と遺産譲渡もすっかり済ませたのちに、ビン一本落としても甲高く響くような静寂が広がっている光景を、まずは想像してみてほしい。そんな設定で四つのスタンザが展開されるのだが、後半に来ると、神聖なる静寂を掻き乱すかのように不吉な蠅が割り込んでくる。

青くぼんやりよろめくような唸りとともに
光とわたしとの間を遮った
すると窓が壊れ それから
見ようとしても見えなくなった

With Blue - uncertain - stumbling Buzz -
Between the light - and me -
And then the Windows failed - and then
I could not see to see -

拙著『アメリカ文学史』でも紹介しながら再び引き合いに出すのは、これほど文学テクストを「読む」ことの深さ、面白さを実感させてくれる作品は少ないからだ。冒頭の「蠅の唸り」がやがて「青くぼんやりよろめくような唸り」と化し、「音」が「色」に翻訳される時、これは純粋に詩人の修辞学的な技法が織りなすものなのか、あるいは生理学的な五感の混乱「共感覚」(synaesthesia)の結果なのかと、読みの可能性は多様に広がって行く。

きわめつきは、最後の一文「見ようとしても見えなくなった」“I could not see to see” である。英語原文の “see” が持つ響きと深みを日本語に移し替えるのは至難の業だが、その含意に「見ることがどういうことかわからなくなった」というニュアンスとともに「目を開けていても何も見えない」というニュアンスが重なるとすれば、それはまさしく日本語でいう「ふしあな」の状態にほかならない。だが、絶望する必要はない。二十世紀末の大批評家ポール・ド・マンは文学テクストの読解における「盲目」のうちに「洞察」の可能性を見出したし、その盟友たる哲学者ジャック・デリダは「視覚だけでは充分ではない」と西欧形而上学の根本を批判したからだ。

たったいま目の前にあるテクストを精読するのは、どんな学問でも不可欠な作業である。だが、目に見えるものばかりがすべてではない。時には「ふしあな」の可能性にも思いを馳せてみるのも悪くない。

『三色旗』2013年12月1日