2012/12/01

トークショー・レポート

誤読してください
巽研究会3年 藤塚大輔

 母は先月マッチのトークショーに行き、はしゃいだとのこと。故に僕もトークショーに行くことにした。嘘である。そして僕は批評理論の集いというコアな集会へと足早に向かった。理論という全能的な響きに魅了されるのは鼻を垂らしていた中学1年生の頃、某書店にて野球の理論書を手にとったところから始まる。後に偶々、大学に入学したところ、文学にも理論があることを知る。理論ヲタの僕が飛びつかないはずがない。奇しくも、僕のゼミの先生が書いた本が僕の文学批評理論の出会いである。「読まないことのアレゴリー」という何かをもじった言葉が使われていた。何のこっちゃ。今思えば、これが恋人ド・マンとの出会いである。巽先生は恋のキューピッドであった。しかし、恥ずかしながら日本人の僕は彼がいつも英語でものを言うから、さっぱりわからなかった。でも、遂に彼の言いたいことが少し分かり始めた。千葉大学の土田先生に通訳してもらったのだ。土田先生曰くド・マンは言葉の奇怪さに興味を持っているようだ。だが、悲しかった。確かに言葉くんは魅力的だけど、まさか愛しきド・マンが浮気するような重婚気質の人間だったとは…

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知恵を食す 
修士1年(米文学)細野香里

 高校時代、多くの先生方に目をかけていただいたが、中でも現代文のK先生に受けた個別指導は膨大な時間に及ぶ。過去問を解く際、問題文中に登場する思想家についても詳しく解説してくださり、本も貸してくださった。今思えば、それは現代批評理論の手ほどきと言ってよいもので、その中でド・マンの名も登場していたのだけれど、当時の私は記述問題の答えを書き上げるだけで精一杯で、先生の教えを充分に消化できていたとは言い難い。借りた本も歯が立たなかった記憶がある。大学院に入り体系的に批評理論を学んだ今も、消化不良を起こすことがしばしばだ。
 今回、巽・土谷両先生のド・マンとの出会いから現在の見解に至るまでのお話を伺い、ド・マンの批評理論はとんでもなく噛み応えのある木の実か何かのようだと思った。最初は舌先で転がすだけで手いっぱいで、一噛みするにも鍛えられた顎の力がいる。けれど一度その味を味わったら最後、噛むことをやめられないのだ。私も顎のトレーニングに勤しみ、その木の実を咀嚼し消化して、自分の果実を太らせる栄養にしたい。

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無限の意味を持つ「言葉」 
修士1年(英文学)大島範子

 巽先生・土田先生による、ポール・ド・マン・トークショーは、「言葉の信用ならなさ」を大学に入ってからようやく学び始め、以降も言葉に翻弄される日々を送る私に、大変刺激を与えてくれるイベントであった。
 だいたいにして、何も考えずに喋っているし、何も考えずに書いている。困ったことに、たまには何か考えて喋るなり書くなりしようかなどと気まぐれを起こすと、結果なぜか余計に私の意図したところとはかけ離れたものが出来上がる。「それ」は、私自身の意識していなかった『私』を反映しているような、全くしていないような、何だか得体の知れない顔でそこに横たわっている。そして、時折驚くような誤解を呼んでくれる。
  言葉はあてにならない。それにもかかわらず私たちは、言葉を使うことも、使われた言葉を解釈することもやめられない。「発し手の意図」に関わりなく machinery として言葉が出てくるとしたら、それを解釈することなど土台不可能なことに思えるし、コミュニケーションなどなりたっていないのではないかと言いたくなるが、やはりないよりは「まし」だし、何かを伝えるような気がするのだ。そうして私たちは今日も元気に、泡のような誤解を生み出し続ける。
  キーツが negative capability と呼んだのは、「わからないものをわからないまま、そのまま受容する」能力のことであった。machinery から溢れ出る「言葉」をわからないままにしておければよいのだけれど、日常においては少なくとも、発された言葉を理解した「ふり」をしてそこに反応することを求められる以上、より「ネガティヴ」であるために私たちに出来ることは、その「ふり」を内面化してそこに固執することのないよう、解釈を幾重にも積み重ねることだけかもしれない。