一般的に文学の形式について考えるとき、我々は小説においてその時代の創意を読み取り、ロマンスにおいてその時代の願望を読み取る。大串尚代氏による『ハイブリッド・ロマンス』はロマンスからアメリカの願望を読み取ろうという試みである。気鋭の米文学者である大串氏はアメリカ文学史の出発点に捕囚体験記(わたし=女はインディアン=男に捕まったけど貞操はちゃんと守りました)を選び、その発展形として19世紀中葉の女性ロマンス作家リディア・マリア・チャイルドの作品群を解説する。
捕囚体験記に始まる米文学の系譜がアメリカ独立革命の前後から19世紀初頭を経て異装の文学へ、つまり男装した女性へ、さらに武装した女性へと転換されていく過程についてはすでに巽孝之氏がその著作『アメリカン・ソドム』で詳しく触れているが、大串氏は異装を出現させる捕囚という特殊な状況に、捕囚となっている女性自身の自己形成システムを見出そうとしている。信仰も貞操も守られはしたが、女性は以前のピューリタン的な女性ではなく、どこかしらにインディアンの感化を受けた女性に変化したので、野性的な自己を獲得しているのである。大串氏は実際に17世紀の捕囚体験記から自己形成的な部分を抜き出して見せる。たしかにその部分は自己形成的であり、なぜか読んでいるこちらが狼狽するほどなまめかしい。そしてそうしたなまめかしさが19世紀まで伝わり、そこへ確信と欲求不満を抱いたヒロインが出現すると、もうインディアンの青年は押し倒されてしまう。もちろん、それが願望だったからである。
チャイルドという作家の作品に直接触れたことは一度もないが、大串氏はそのいずれをいかにも魅力的な素材として伝えている。先住民がキリスト教徒の女性に押し倒される『ホボモク』、独立革命前夜のボストンを舞台にみなしごのヒロインが「おのれ」を全うする『反逆者』、ペリクレス時代のアテネを舞台に美貌のヒロインが置物同然の美青年との「恋」を全うする『フィロシア』、ニューヨークの印象を書簡形式にまとめたルポルタージュ『ニューヨークからの手紙』、黒人の血が混じったみなしごの姉妹が白人としての「属性」を全うする『共和国ロマンス』、どれにも変革の世紀に生まれた女性の力強い意識がにじみ出ているような気配が感じられる。本文中に紹介されているプロファイルによれば、作者のリディア・マリア・チャイルドは信仰に対して覚醒的な奴隷解放論者であり、経済的に無能力な夫を養う稼ぎ手でもあったようだ。
大串氏はそれぞれの作品のヒロインの行動を分析し、時には作者自身のプロファイルを引用しながらそこに共通する逸脱傾向を指摘して、それをアメリカ文学における不可避的な要素として考える。ロマンスは不可避的に、混沌を求めて周縁へと走るのである。そこは清潔で秩序ある中心部ではないので、先住民や黒人奴隷といった姿で異種異端のたぐいが存在している。ロマンスが周縁へと走るのは、周縁がエキゾティシズムでもって中心を魅了するからである。そこでは性差、人種といった人間の属性も信頼を失い、AであったものがAではなくなる。エキゾティシズムとの遭遇は混沌を生み、混沌は異種混淆という形を得て周縁部の形状をあいまいにする。するとそこは周縁ではなくなり、新たな境界線はさらに外側のどこかに出現することになる。
本書の中でもっとも重要な指摘は、アメリカという国が建国以来から文化的差異への受容体として機能しているという部分かもしれない。元来が移民から成立している国なので当然といえば当然ということになるのだが、そこへ積極的な異種混淆というモチーフが加わることによって貪欲という印象が加わり、そうしたところへボウルズの『シェルタリング・スカイ』、アーサー・ゴールデンの『さゆり』という例示が与えられると、アフリカだろうが日本だろうが、どこでもとにかく周縁を目指して進むアメリカン・ロマンスにはもはや「とめど」というものがないのではないかと心配になる。読者をここまで誘導してくる大串女史の手つきが実に好ましい、明晰な思考による興味深い論考である。