2000/02/18

Ogushi Hisayo's Essays:ニューエイジ登場1



アメリカ文学との出会い

 長らく読み返していなかった一冊の本が、最近ふたたび世間の注目を浴びるようになった。街を歩いていると、高く積み上げられた白い装丁のその本が、書店の入り口で待ちかまえているのが目に入る。その本のタイトルは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。1951年に出版され、いまやアメリカ文学の古典に数えられているJ・D・サリンジャーの出世作が、村上春樹の名訳で現代日本に蘇った。旧訳である『ライ麦畑でつかまえて』もまた書店で平積みとなり、さらにはサリンジャーの娘によるサリンジャーの伝記『ドリーム・キャッチャー』が翻訳され、その横には関連書籍が場所をしめている。ライ麦畑マニアの少年を主人公にした、マルコム・クラーク監督の映画『ライ麦畑を探して』も公開され、今年はサリンジャー再ブームの年となりそうだ。わたしにはそれが嬉しいような、そしてちょっと気恥ずかしいような気がしている。

 わたしは現在アメリカ文学を研究し、大学で教鞭を執ることを生業としている。いまではおもに19世紀に人種混淆や女性解放を訴えたリディア・マリア・チャイルドという女性作家や、20世紀半ばに活躍した越境作家ポール・ボウルズを研究対象としており、こうした研究の成果として『ハイブリッド・ロマンス――アメリカ文学にみる捕囚と混淆の伝統』(松柏社)を上梓するにいたったが、いまから十数年前、文学部に入ったばかりのわたしが、二年生で専攻を決める際に迷いもなく英米文学専攻を選んだのは、「サリンジャーを研究したい!」という強い希望があったからだった。しかしすでにサリンジャーを卒論で選んでいる先輩がふたりもいたため、指導教授からサリンジャー禁止令が発布されてしまう。いそいでほかの作家を捜すはめになったわたしは、ちょうど3年生の半ばから交換留学で1年間オレゴン大学の英文科で勉強したこともあって、いままで知らなかったアメリカ文学の世界に魅せられていくことになる。わたしはサリンジャーに距離を置くことで、アメリカ文学の魅力を満喫することになった。

 こうして、わたしの「ブンガク修業」が始まった。しかしなぜかホーソーン、メルヴィル、フォークナーなどの必読作家を素通りし、文学的主流からははずれていたボウルズやジム・ダッジ、あるいはそれまで研究対象とは考えられていなかった女性作家によるセンチメンタル・フィクション(たとえば『若草物語』など)に自分の好みがあることに気がついた。留学から帰国した直後、わたしがまだ学部四年生のときのこと、サンディエゴ州立大学のラリィ・マキャフリイ教授と同シンダ・グレゴリー教授が九三年に来日したおりに精力的におこなった日本のアヴァン・ポップ作家たちへのインタビュー企画に関わる貴重な経験があったおかげで、島田雅彦氏、大原まり子氏、笙野頼子氏らなど日本作家たちの文学観を知り(この企画は昨年されたThe Review of Contemporary Fiction 2002年夏号「新しい日本文学」特集に結実する)、変流といわれるような、ちょっとはずれたブンガクの面白さを感じるようになっていた。

 その後、大学院時代には、英文学の専門誌や文芸雑誌などでアメリカ文学の新刊情報を紹介したり、あるいは向山貴彦や竹内真など若手日本作家の作品を書評したりする機会があり、少しずつではあるが、自分の文学に対するキャパシティを増やしていったように思う。つねづね指導教授に「自分の好きなものに責任を取れ」と言われてきたわたしにとっていったい何が文学の魅力なのか、その答えがうっすらと輪郭を取りだしてきた。

 しかし、時間というのは皮肉なものである。去る4月20日、前述の映画『ライ麦畑をさがして』公開を記念しイメージ・フォーラムで行われたトークショーでは、前述の指導教授・巽孝之氏の対談相手としてわたしが指名されることになってしまったのだから。ふりかえってみれば、そもそもサリンジャー本人が1919年生まれであるから、『ライ麦』を書いたのは、高校生でもなければ大学生でもない、とっくに三十路にさしかかったころ、つまりいまのわたしと同年代である。サリンジャーがようやく青春に対峙できる年齢を迎えて同書を書きあげたように、わたしもまた大きな回り道の果てに、『ライ麦』に対して、今ようやくきちんと向き合えるようになったのかもしれない。その間、わたしはさまざまな批評家や作家に会う機会があった。それらのひとたちとの交流は、わたし自身の文学観の構築に役に立ったばかりではなく、わたしがアメリカ文学を学ぶきっかけとなったサリンジャーの名作『ライ麦』を、ほんとうに受け入れるためのさまざまなヒントをもたらしてくれたのである。


(『週刊読書人』2003年6月13日号)

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