1992/02/16

卒論講評:太田令奈( 1992年度:第 2期生)


太田令奈君は巽ゼミ 2期生、つまり名ゼミ代・山口恭司君や本塾文学部英米文学専攻新任助手・大串尚代君の同級生です。この学年が入学してきた 1989年は、まさにわたし自身が法学部から文学部へ移籍したその年にあたり、日吉の一年生の英語クラスもふたつほど担当していたのですけれども、たまたまそれらのクラスにいたのが、まさに以後入ゼミする山口君、池田君、土屋君、そしてほかならぬ太田君本人でした。

1年次クラス全体の出来は、まあまあといったところでしょうか。

この時代にはわたしは原典講読は担当していなかったため(翌年からです)、彼らの 2年生時代というのは知らないのですが、しかし当時は英米文学専攻応募者数が毎年 130名を超過しており足切りテストをやっていた最後の時代ですから(いまは 60名前後)、この学年はたいへんな難関を切り抜けてきたわけですね。そのせいか、太田君を含む 2期生は 1991年、3年次からの入ゼミ以後、「まあまあ」どころではない、めざましい成長を遂げます。

もちろん、最初太田君が卒論でニュー・ロスト・ジェネレーションをやりたい、とりわけブレット・イーストン・エリスをやりたい、といってきた時には、わたしは最初、ずいぶんネガティヴな反応をしたはずでした。

このバブルの最盛期、アメリカ文学の最先端が<SWITCH>や<Esquire>でしきりに紹介されており、そこから卒論主題を選ぶと、けっきょく翻訳ばかり読んで書くことになるんじゃないか、というのが懸念の発端です。このころといえば、まだ英語・日本語どちらかで書くというオプション付きでしたから、必然的に日本語での卒論執筆を選ぶゼミ生が多くなり、読むのも書くのも日本語では困る、と思ったのです。げんに 3年次の太田君の研究は、まさにそうした不安を裏書きするような感じで進んでいたように思います。

ところが彼女が 4年に進み、その当時未訳だったエリスの新作『アメリカン・サイコ』に挑戦したあたりから、様子が変わり始めました。わたしの方で参照するように申し渡した文献は、高度資本主義アメリカを考えるための論考いくつかと、エリスをもその一員とする新世代の概念ブラットパック(わたしは 1990年、ラリイ・マキャフリイから彼の当時の最新論考「ピンチョン以後のポストモダン」[< Positive 01>収録]を渡されて初めて知りました)に関する資料にすぎませんでしたが、彼女はそれらをみごとにエリス論のなかに取り込みまんべんなく消化し、92年度夏合宿では、すでにこの卒論の骨格ともいえる原稿を堂々と読み上げたのです。夏合宿以前には太田君から不安にみちた残暑見舞が届いていただけに、わたしが大いに喜んだのはいうまでもありません。

そのゆえんは何か。もちろん、いまではもうエリスもブラットパックもよく知られているかもしれませんが、とにかく当時、翻訳に加速度がついていた我が国でさえ未訳だった小説を何とか読破したということ、のみならずブラットパックという当時まったく未紹介だった新しい概念をそれに巧妙にからみあわせたということ、その結果、高度資本主義アメリカの文学についてその本質に迫るような理論を構築することができたということ、これら三点が、彼女の卒論の美質でしょう。また太田君の場合、内容のみならずプレゼンテーションでの原稿の読み上げ方がじつに説得力にあふれるもので、夏合宿のあと山口君や水谷君が「ぼくたちもあんな発表できたら」と率直な感想を洩らしていたのも、記憶に残っています。

むろん、新しいものを扱うことが即、オリジナリティにあふれる論考につながるかどうか、それは必ずしも保証されていません。あれから 8年、時代はいま、エリスよりも彼の同級生だったジョナサン・レセムを評価する方向へ動き始めました。しかし、太田君の卒論は、いま読み返しても、90年代初頭でなくてはありえなかったアメリカ文学最先端の息吹を確実に伝えるばかりかそれに文学史的・文化史的意義すら与えていますし、とりわけ『アメリカン・サイコ』の残虐描写をめぐって戦わされた文学表現の検閲の問題は、以後、マスコミの自主規制や盗聴法が制度化された我が国においてもあてはまる、文字どおり 1990年代文学全般の問題にほかなりません。

その意味で、太田君が PCや多文化主義の勃興によってエスカレートする検閲的意識の対象となった同書をあくまで擁護し、本書のホラー性の本質を残虐描写ならざる部分に求めて斬新な再解釈を施した部分こそ、この卒論最大の読みどころといえるでしょう。

03/30/2000




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―巽先生による講評―




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